自分の事ですので、明け透けない言葉で書いていきますね。
不登校になる、不登校だったって言う経験って非常に特殊なものだと思うんですよ。
誰しもがなるわけでは無いし、なろうと思ってもそう簡単になれるもんでもない。
しかも理由が理由な場合は特にその経験を生かしてみたいって思うんじゃないでしょうか。
「不登校だった」って一種のブランドに縋っているとでも言えばいいのかな。
何だか、不登校だった自分の価値がそこにしかないみたいに思ってしまう時があるんですよね。
だから同じ境遇で悩む人の力になりたいと思うし、寄り添いたいとも思う。
下手したら共倒れするかもしれないのに、無責任な考え方だと思います。
もちろん私の話ですのであしからず。
少なくとも私、昔は奉仕的というか誰かの為になることで、そこを居場所としたいタイプの人間だったのですよ。
つまり求められたい、注目されたい、頼られたい。
自己の承認欲求というのがやたらめった強いタイプで、今思い出すだけでも本当に未熟で恥ずかしい。
その程度の覚悟で、自分を超えて他人の為に何かできるわけがないのに。
不登校の特殊性
今の時代、学校に行けなくなってしまうのって仕方の無い話のように思えますがね。
ニュースとか見ていてもSNSを使ったいじめとか本当に悪質で陰湿で、見ていてしんどい気持ちになります。
しかも実名あげちゃうとか、常識ある人間としてどうなんだろう。
常識無いからできるのかな、分からないけど。
私の学校は生徒数が多くてその分トラブルも多かったんですよ。
私自身それに巻き込まれたというのもありますし、本当は中学時代に不登校になっていてもおかしくは無かったと思っています。
高校受験を控えていたから我慢して通いましたが。
不登校になってしまうというのは確かに特殊で、身の回りでは類を見ないような経験だと思う人もいるでしょう。
事実私も不登校になる前は学校に行けなくなるということが、どんなことか分かりませんでした。
実際自分がそうなってしまうと、どうしていいのか全く分からなくなってしまいます。
まるで自分だけ絶海の孤島に放り込まれてしまったように気がしていました。
そう考えると不登校ってまるで「普通」と違うんですよ。
言葉の使い方は適切ではありませんが、ある意味で「特殊」、「特別」とまでここで入っておきましょう。
順調にいけば経験することも無いことを自分がしている、或いはしていた。
それも非常に辛いことで、調べれば自分と同じように苦しんでいる人が居る。
だったら是非とも助けになりたいと思うのも不思議な話ではありません。
自分に何ができるのか
誰かの助けになるということは非常に尊い行いでありますし、誰もができるわけではありません。
いろんな葛藤の末に選択された道であるのでしょう。
だからこそ、生半可ではいけないというのが私の意見なのです。
私は私の確立するために、つまり私自身が自分の挫折を肯定するために誰かのために何かがしたいと思っていました。
でもそれじゃあ、何にもならないんですよね。
むしろ人のことばかりに目がいって自分をおろそかにしてしまいます。
自分のダメなところや悪いところ、直さなければいけないところ、変わりたいところ。
たくさんあると思います。
それらのことに目を向けなければいけないのに、自分の事を棚に上げて人を助けたいだなんて、虫が良すぎる話ありません。
自分に何ができるのか。
今でも悩んでいます。
自分の経験を無駄にしたくないから、あの頃の自分を肯定したいから、その経験を生かしてみたいとも今でも思います。
でも、何をするにしても自分自身というものをしっかりと確立しなければいけないですね。
そうでなければ中途半端のまま終わってしまうこともあります。
不登校を経験した身としては、自分がいかに自分を解っていないのかを知れたという一点においては良い経験をしたと思わなくもないですね。