不登校だったという過去が今の自分にどれだけの影響、または弊害があるのか、時々考えることがあります。
実際どうなんでしょうね、私は幸いにしても親兄弟に支えられて今があると思っていますし、それが無ければ自分がどうなっていたのか想像もつきません。
正直、不登校でなかった自分を想像することの方が難しいです。
私は元から学校が嫌いでしたし、行かなくて済んだことに対して安堵すらしていましたから。
でも、後悔は多少なりともあります。
というのも、学校に行かなかったことに対する後悔は無くとも、学校に行けなくなったしまった自分に対する不甲斐無さというものはついて回るものです。
さらに言えば、一度挫折してしまったトラウマのようなものもありますね。
一度レールから外れてしまったからには二度と戻れないというか、もう他の人とは同じように過ごせないといった漠然とした不安があったのかもしれません。
こうして見直してみると、同じような生き方なんてできない筈で、自分の人生は自分自身が責任をもつしかないのに、
なぜか周りと合わせることによって安心感を得ようとしている自分がいるのが分かります。
きっとそのようにして今まで生きて来たからでしょう。
事実、学校といった何かしらの機関に所属していればそのような傾向に傾きがちです。
もう立ち直れないかもしれないという不安【トラウマ】
或いはトラウマとも言いましょうか。
挫折するのも挫折に慣れてしまうのも非常に恐ろしいものです。
不登校になって、自分を見つめ直す時間が増えて、自分が如何にちっぽけで何もできない人間化と言うことが分かりました。
自分が思うほど、自分は特別でも何でもなかったのです。
それはそうでしょう。
私は普通の人間として生まれてきて、それなりに恵まれた環境でそれを享受して生きてきたのですから。
どうして甘ったれのガキが何かに突出した人間になれるというのか、という話です。
だからこそ、自分には何もないって気づいたんです。
何もないから、再び動き出せるのか非常に怖くなりました。
自分には自信も何も無くて、ただ生きてるだけで。
要は何も考えていなかったのかな。
自分が何者であるというか、自分は何ができて何ができないのかということとか。
そういう、自分に対する見直しというものを怠ってきたから、もうこれ以上何もできないという無力感に襲われたのでしょうね。
不登校であったことの弊害【トラウマ】
不登校であったことは何かしらの弊害になります。
とは言え、その弊害すらも自分が勝手に決めた弊害なんですよね。
不登校であったことは、確かに普通とは違うというレッテルを貼られることになる時もあるかもしれません、
ですが、不登校であったとしてもしっかりと生活している人は大勢います。
もし弊害があるとすれば、諦め癖が付いてしまうかもしれないということでしょうか。
「また失敗してしまうかもしれない。それならやらない方が良い」
そんなことを考えてしまうこともあります。
やらなければ失敗することも、傷付くこともないから、初めからやらなければいいと思ってしまうんですね。
でもそれって、何だかすっごい癪に障りません??
私、きっと不登校になった時はあれが精いっぱいだったんですよ。
あれ以上のパフォーマンスで学校に行くことなんて到底無理だったんだと思います。
今でも失敗してしまったらと思うと怖いです。
昔の、不登校時代に戻ってしまうんじゃないかって考えるだけで恐ろしくなります。
だからと言ってそれだけを気にして生きていくなんて、時間の無駄だと思いませんか?
私は思います。
できるなら、もっと自由に思考して自分の好きなことをしていきたいと思って今ここにいます。
大学で自分の勉強したいことを学んで知る、同じ目的を持つ友人もできて学業に励んでいます